夏の運動会を数日後に控えたある日の午後、学校から帰った少年はランドセルを放り出すと、息を切らして叫んだ。
「大変だよお母さん、今日の記録会で1組の光君が持っていたかけっこの記録を、3組のトリノ君が破ったらしいんだって!」
 台所で夕食の準備をしていた母親は、ちょっと驚いたような顔になって、タマネギをむく手を止めた。
「トリノ君てあの丹生さん家のトリノ君?」
「そうだよ。前から足の速さは光君とほとんど同じっていう噂だったんだけど、今日光君の記録が破られたらしいんだ」
「それ、本当の話? どこの競技場で走ったの?」
「うん、この辺じゃあ一番カッコいいあのオペラ競技場だよ」
少年の興奮はまだ冷めやらない。
「ちゃんと測ったのかしらね?」
母親はちょっと疑わしそうな目になっている。
「アソコの時計は凄く正確らしいから、認められれば新記録になるらしいんだ。そしたら凄いよ、みんなひっくり返っちゃうよね」
母親はまだ信じていないようである。
「オペラ競技場じゃあ短距離走で測ったのね」
「そうだよ、でもできるだけ長い距離を走らせるために、セルントラックからスタートして地下のグランサッソーまで走ったらしいよ」
「長距離走だと、トリノ君も光君もほとんど速さが同じだって聞いたことがあるけど」
「ああ、前の長距離走大会の時の超新星16万光年走の時の記録でしょ。あの時はほとんど同時にゴールしたらしいよね」
 少年は得意そうに答えた。
「そうよね、トリノ君は短距離走だけが得意って事はないのよね。水泳では光君よりトリノ君がだいぶ早いってうわさは聞いたことはあるけど、光君の記録は真空走のときの記録でしょ」
「もちろんそうだよ」
「そう・・先生の測り方は大丈夫なのかしらね。けっこう微妙らしいから。でももし本当なら色々変えなきゃならないんで大変よね。それで仕事にありつける人はいいけど、このレシピまで変えられるんじゃかなわないわ。ホント泣けてきちゃうわ、タマネギで・・」
 少年はひとしきり話し終えるといつものように外に遊びに出て行った。

 それから数日後、少年ががっかりしたような表情で学校から帰ってきた。
「お母さん、この間のトリノ君の記録。先生のちょっとした測定ミスだったらしいんだ。やっぱり光君の記録は超えられなかったんだって」
母親は少しほっとした表情になった。
「やっぱりね。これで当分、レシピを変えずに済むっていうことね。期待していた人には残念だったでしょうけど。またいつものタマネギをむく生活がつづくのね」
 母親はちょっとほっとしたような、それでいて少しがっかりしたような顔になり、またタマネギをむき始めた。

<豆知識>
・ 2011年9月にヨーロッパ合同核研究機関(セルン CERN)がニュートリノの速度が光速を上回ったと発表し大きな話題となった。しかし2012年6月この実験結果は訂正され光速は超えていないことが判明した。
・ ニュートリノは原子核を構成する素粒子でレプトンと呼ばれる中間の一種。他の物質との作用がほとんど起こらないため検出が難しい粒子。ノーベル物理学賞を獲得した小柴昌俊さんが岐阜県のカミオカンデで約16万光年先の大マゼラン雲での超新星爆発によるニュートリノを検出したことで有名。このときは超新星爆発による光とニュートリノはほぼ同時に観測された。
・ ニュートリノの速度計測は「オペラ」という実験で行われ、スイスのジュネーブにあるセルン研究所からイタリアのグランサッソー地下研究所までの730キロメートルで、精密な原子時計を使って計測された。
・ 光の速度は真空中では秒速約30万キロメートルで、宇宙の最高速度であることが相対性理論の前提となっている。ただし水中では光の速度は遅くなり、その結果光の屈折が起こったりする。
・ 母親が「タマネギをむく」ことはF・クローズ著の「宇宙という玉ねぎ」の皮むき(原子-原子核-素粒子…)をイメージしています。